碧梧桐忌 (記念日 2月1日)

碧梧桐忌

「赤い椿白い椿と落ちにけり」――この一句を残した河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)は、1937年(昭和12年)2月26日に64歳で逝去しました。ちょうど寒が明けて立春を迎える頃であることから、碧梧桐の忌日は「寒明忌(かんあけき)」とも呼ばれています。

碧梧桐は1873年(明治6年)2月26日、現在の愛媛県松山市に生まれました。本名は秉五郎(へいごろう)。松山といえば正岡子規の故郷でもあり、碧梧桐は子規の高弟として俳句を学びました。同じく子規門下の高浜虚子と並び称され、「子規の二大弟子」として俳句界に名を刻みます。しかし二人の俳句観はやがて大きく分かれていきます。

虚子が伝統的な季題と定型を重んじたのに対し、碧梧桐は5・7・5の定型を崩す「新傾向俳句」を提唱しました。俳句とは季語と定型があってこそ成立するという考え方を真正面から問い直し、さらには季題すら排除した自由律俳句へと向かっていきます。この急進的な路線は俳壇に大きな波紋を呼び、高浜虚子との対立は「虚子・碧梧桐論争」として長く語り継がれています。碧梧桐の影響を受けた荻原井泉水はのちに「層雲」を主宰し、尾崎放哉や種田山頭火ら自由律の名手を世に送り出しました。碧梧桐の革新はひとりの俳人の試みにとどまらず、近代俳句の一大潮流を生み出す起点となったのです。

俳句革新にとどまらず、碧梧桐は驚くほど行動的な人物でした。全国各地を巡る大旅行は総距離2万6千kmに及び、旅先で詠んだ句を新聞に連載するスタイルで全国の読者を魅了しました。晩年は書家としても活動し、従来の整った楷書や行書にとらわれない奔放な筆致が独自の書風として評価されています。