人麻呂忌 (記念日 3月18日)

人麻呂忌

「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」——柿本人麻呂が詠んだこの長歌の一節は、千三百年を超えた現在も日本語の詩の頂点に置かれ続けています。飛鳥時代に持統・文武両天皇に仕えた宮廷歌人で、724年(神亀元年)のこの日が忌日とされます。「人麿忌」「人丸忌」とも表記され、月遅れにあたる4月第2日曜日には兵庫県明石市の柿本神社で例祭が執り行われています。660年(斉明6年)頃の生まれとされる人麻呂の詳細な経歴は、ほとんど史料に残っていません。わかっているのは、689年(持統3年)から700年(文武4年)にかけて集中的に作品が残されていることです。皇子・皇女の死に際して詠まれた挽歌、天皇の行幸に随行して詠まれた作が大半を占めることから、歌をもって宮廷に奉仕した詩人であったと考えられています。官位も低く、その生涯の大半が謎に包まれているにもかかわらず、残した作品の圧倒的な水準が後世の評価を決定づけました。

『万葉集』に人麻呂作と明記された歌は長歌16首・短歌61首。さらに『柿本人麻呂歌集』に由来するとされる歌が長短あわせて約370首におよびます。長歌という形式において特に際立った才を示し、序詞・枕詞・対句といった修辞を駆使しながら壮大な叙景と深い情感を同時に表現する手法は、それ以前にも以後にも並ぶ者がないと評されます。終焉の地については諸説あり、島根県益田市(旧石見国)が有力な候補地として知られています。

奈良時代の山部赤人と並んで「歌聖」と呼ばれ、平安時代には藤原公任が選んだ和歌の名手36人「三十六歌仙」にも名を連ねています。江戸時代には学問神・和歌の神として民間信仰の対象ともなり、各地に柿本神社や人丸神社が建てられました。明石市の柿本神社はその代表的な社で、地名「人丸」として今も市内に残っています。千三百年の時を経てなお、人麻呂の名は歌に携わる人々の間で生き続けています。