宗因忌 (記念日 3月28日)

宗因忌

「宗因なくんば、我々のはいかい今もって貞徳の涎をねぶるべし」——これは松尾芭蕉が師と仰いだ西山宗因への言葉です。蕉風俳諧の完成者として名高い芭蕉がそこまで言い切るほど、宗因は江戸時代の俳諧史において決定的な転換点を担った人物でした。その忌日である3月28日が「宗因忌」として知られています。西山宗因は1605年(慶長10年)、肥後国八代(現在の熊本県八代市)に生まれました。本名は豊一、通称は次郎作。15歳頃から肥後国八代城代・加藤正方に仕え、正方の影響で連歌と出会います。その後、京都に遊学して里村昌琢に師事し、本格的に連歌の道を歩み始めました。連歌の世界で着実に頭角を現した宗因は、1647年(正保4年)に大坂天満宮連歌所の宗匠という要職に就き、全国に多くの門人を抱えるようになります。

俳諧の世界での宗因の活躍は、延宝年間(1673〜1681年)に最高潮を迎えます。当時の俳諧界は、松永貞徳が創始した貞門派が主流でした。しかし宗因は、貞門派の格式ばった言語遊戯とは一線を画し、自由で斬新、時に滑稽味あふれる作風で一世を風靡します。この流れが「談林派」と呼ばれる俳諧の一大潮流となり、関西から始まった流行はやがて全国へ波及していきました。

談林派の特徴は、発想の意外性と表現の多彩さにあります。道理をあえて攪乱し、笑いや軽みを積極的に取り込むその姿勢は、それまでの俳諧の常識を大きく揺さぶるものでした。宗因の門下からは井原西鶴・岡西惟中・松尾芭蕉といった錚々たる人物が輩出され、後の日本文学に深く刻まれる才能たちが談林の土壌で育ちました。延宝3年(1675年)には江戸を訪れた宗因を囲んだ興行が開かれ、若き芭蕉(当時号「桃青」)もこれに加わっています。

晩年の宗因は俳諧から離れ、原点である連歌の世界へ戻っていきます。残した連歌作品には『伏見千句』『小倉千句』、俳諧には『宗因千句』『天満千句』などがあります。1682年(天和2年)、77歳で生涯を閉じました。宗因がいなければ、芭蕉の蕉風俳諧も別の形になっていたかもしれません。日本の俳諧文化の系譜をたどるとき、その根幹に宗因の名は欠かせません。