万太郎忌 (記念日 5月6日)

万太郎忌

1963年(昭和38年)5月6日、俳人・小説家・劇作家の久保田万太郎が東京で没しました。73歳。母校の慶應義塾大学病院での最期でした。文化勲章受章者であり、日本芸術院会員として日本演劇界の重鎮となった人物が、生涯にわたって描き続けたのは、ほかでもない東京下町の市井の人々の暮らしと情緒でした。

1889年(明治22年)11月7日、現在の台東区雷門に生まれます。生家は「久保勘」という袋物製造販売を営む商家。この下町の空気が、万太郎の文学の核心をかたちづくることになります。慶應義塾大学在学中の1911年(明治44年)、永井荷風が創刊した『三田文学』に小説『朝顔』を発表。同年、戯曲『プロローグ』が雑誌『太陽』の懸賞に当選し、三田派の新進作家として名が知られるようになります。

翌1912年に第一作品集『浅草』を刊行。以後、東京の下町を舞台にした作品を次々と発表します。1917年には初期の代表作と評される小説『末枯(うらがれ)』を世に出します。さらに戯曲『大寺学校』(1927年)など演劇方面にも活動の幅を広げ、築地座を経て文学座の創立にも参画しました。泉鏡花・永井荷風・樋口一葉の作品を脚本化して新派の舞台に提供するなど、小説・戯曲・演出と多面的な仕事を続けました。

1926年(大正15年)には東京中央放送局(現・NHK)に入局し、放送の世界にも携わります。この時期に小説『春泥』(1928年)や『花冷え』(1938年)などの佳作を発表。俳句の面でも俳号「暮雨」「傘雨」を用いて句作を続け、第一句集『道芝』(1927年)を刊行しました。戦後は1947年に日本芸術院会員となり、1957年に文化勲章を受章。演劇界の代表として中国やノルウェーへも赴きました。万太郎の忌日は俳号の傘雨(さんう)から「傘雨忌」とも呼ばれます。雨を帯びた傘の字が、しとしとと降り続く下町の雨景色を連想させるようで、この俳号と忌日の呼び名が重なり合うのは、万太郎の文学の世界観と不思議なほど一致します。市井の人々の哀感をすくい取った作風は終生変わらなかったと伝えられており、その一貫した姿勢が今も彼の名を文学史に刻み続けています。